『五体不満足』(乙武洋匡)を障害者として読んだ感想と今の想い

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乙武洋匡さんと障害者

ぼくが『五体不満足』(乙武洋匡)と出会ったのは、小学校低学年の頃だった。

その感想と今への影響を書く前に、この記事を書いたキッカケを紹介する。

『欠損BAR・ブッシュドノエル』で働く、生まれつき右手の親指以外が無くて腕の長さも違う、あもりさんが「キミは障害者で可哀想だね」と言われたい私のような障害者がいることも知ってほしいという記事を書いた。

ここには、

今はダメだと言われている「障害は可哀想」という考え方、この”可哀想”に対して私はワクワクしてしまいます。『ネガティブな自分を認めてくれている』……そんな気持ちにしてもらえるんです。「キミは障害者で可哀想だね」って言葉、キライじゃありません。

とあり、そんな気持ちにさせたのが乙武さんだと書かれている。

頭も良く野球やバスケをしたり、何にでも挑戦していく姿はヒーローみたいで、ひたすら障害を隠すことに必死だった自分にとっては、あまりにも眩しく、すぐに目をそらしました……。

そして、

テレビを見るたびにチラチラ視界に入る鬱陶しい存在。

と綴られている。

それに対して乙武さんはあもりさん、ごめんね。と、続けて「障害者」という個人は存在しないの2つを書いた。

中でも、

『五体不満足』で伝えたかったのは、「障害者といっても、じつに様々な人がいる」というメッセージ。

障害者と接するにあたって困惑する人は多い。

「助けたらいいのか、放っておいたらいいのか、励ましたらいいのか、同情したらいいのか。障害者って、よくわからん」

困惑する気持ちも、わからなくはない。でも、よく考えてみれば「障害者」なんていう個人は存在しないのだから、そりゃ助けてほしい人も、放っておいてほしい人も、励ましてほしい人も、同情してほしい人もいるでしょうよ。

にとても共感した。

ぼくも『五体不満足』(乙武洋匡)を最初に受け取った時は衝撃で、その後にだんだん慣れてきて乙武さんの影響を受けるようになって、そしてあもりさんの言うことも乙武さんの言うことも納得しつつ先の考えも出て今に至るので、これを書くことにした。

著者にしくんについて

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身長109cm、体重19kg、25歳。横紋筋肉腫(小児がん)、ムコ多糖症モルキオ病(ライソゾーム病)。高卒でフリーで仕事をしようとするがなかなか上手く行かず、後に上場するIT企業の株式会社セラクに21歳で入社。しかし、22歳3月に同級生は新卒になるから逆のことがしたいとニートに。そして、スマホアプリ開発、クラブダンサー、ライター、YouTuber、ホストなどを経て23歳でSOD専属監督兼男優になる。現在は、にしくんクラブと称したコミュニティ運営、性やIT系企業のサービスに関わったり、テレビや雑誌などでマルチタレントとして活動中。SNSのフォローもよろしくお願いします。

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『五体不満足』を読んだ感想と今の想い

あらためて、ぼくが『五体不満足』(乙武洋匡)と出会ったのは、小学校低学年の頃だった。

小1、小2の時、ぼくは骨髄移植のために長期入院をしていた。寝て、ゲームして、それだけでは暇だろうと父は伝記をぼくによく買って来るようになった。そして、ぼくは伝記にハマった。エジソン、ヘレンケラー、ライト兄弟、福沢諭吉、野口英世、キュリー夫人、ナポレオン、ベートーベン、、、など読んだ。ちょこちょこと身体障害を持った偉人を挟んで買って来たのは、父からのメッセージだったのかもしれない。そして、退院してしばらくした時に父に勧められたのが『五体不満足』だった。当時、戦隊ヒーローとアニメと一部のバラエティ番組しか観ていなかったぼくは、まだ乙武さんを知らなかった。だから、表紙の手も足もないのに笑っている姿は衝撃的だった。父は障害と前向きにしっかり向き合わせようとしたのに対して、母は隠したがってるというか受け入れきれてない感があったから『五体不満足』に対してあまりいい顔をしなかった。今まで読んだ本と違って歴史上の人物ではなかったし、フリガナも少なかった。そして、表紙の乙武さんをちょっと奇妙にも感じた。恐る恐る読んだ。

しかし、読み出したらハマったし、乙武さんを好きになった。手がないのに字をかけて、足もないのにスポーツが出来るのには、文字だけでは理解出来ず興味が湧いた。障害があるのにガキ大将のようにクラスの中心にいて、勉強が出来て、本を書いてヒーローのようだった。不可能を可能にしてやろうという挑戦心は乙武さんから学んだ。手足がなくてもこんなに出来るなら、小さくても手足があるぼくはもっと出来るはずだもっと頑張ろうと思った。後に大人になって色んな人と飲むようになる(あの騒動の前)と、乙武さんは地元じゃ性格悪いって有名だよとか、業界では女好きの変態で有名だよとか聞くようになるのだけれど、それはヤンキーに憧れる感じでカッコイイと思った。あの騒動は、ぼろが出ちゃったかーくらいにしか思わなかった。

乙武さんを褒めすぎた←

とりあえず、障害者で、有名で、結果残してて、日本にいる人は乙武さんしかいなかったからすごい障害者の代表だった。そして、負けず嫌いなぼくは、手足のない人に手足があるぼくが負けてたまるか!って感じだった。だからどんどん活動して行き、今がある。しかし、有名になる程、困ることも出た。ぼくが障害を物ともせず頑張れば、自分も頑張ろうと勇気を出して行動する障害者が増えるかと思ったけれど、そう甘くもなくてにしくんを目障りに感じる人も多くいるのかなと。ぼくは障害者の1人として発言しているのに、障害者の代表みたいになってしまうことがあるなと。それが「キミは障害者で可哀想だね」と言われたい私のような障害者がいることも知ってほしいあもりさん、ごめんね。「障害者」という個人は存在しないの3つにまとまっていたから、頭の中で思っていたことはやっぱり事実なんだなと痛感した。障害者であることを可哀想だと思われたい人もいれば、普通に扱われたい人もいる。それは個人の自由で良いと思う。障害者とはどのように接したらいいのかという発想自体が間違っていて、目の前にいる相手が何を望んでいて、どう接してほしいのかを探って欲しいとは思うけれどそれは難しいことだと思う。

だから、ぼくは「障害者」というイメージを壊したい。「障害者」を死語にしたい。

車椅子の人に配慮しなきゃいけないことはあるし、目が見えない人に配慮しなきゃいけないこともあるし、耳が聞こえない人に配慮しなきゃいけないこともある。でも、障害者に共通して配慮しなきゃいけないことはないし、障害者という括りは必要ない。もちろん、医療や法律の中では制度のために大きな定義と括りが必要なこともあるけれど、一般人が日常で障害者という言葉を認識する必要はない。可哀想とか、配慮しなきゃいけないとか、キモいとか、社会的弱者だとか、頑張ってるとか、大きなイメージを持つために障害者という大きな括りの言葉を作るし、障害者は障害者というイメージの中で生きるのではないだろうか。障害者のAさん、障害者のBさん、ではなくて、右手に麻痺があるAさん、心臓が弱くて激しい運動が出来ないBさんで良いじゃないか。車椅子の人も、目が見えない人も、耳が聞こえない人も、麻痺がある人も、心臓が弱い人も、まとめて「障害者」と呼ぶのは、デブや、コミュ障や、低学歴や、低収入や、ギャンブル依存を、まとめて「クズ」と呼んでしまうのと一緒で、差別や批判と同列な見方をする時に使う括りの言葉だと思うんだ。

だから、「障害者」の可哀想とか、貧しいとか、モテないとか、頑張ってるとか、暗いとか、幸せになれないとか、そんな世間の勝手なイメージをことごとく裏切り壊したい。そして、障害者の定義が曖昧になりイメージしにくくなれば、障害者問題なんてなくなって行くんじゃないかな。にしくんを羨ましいと思うと、障害を羨ましいと思ってしまったということになって混乱を産むから面白い。にしくんを妬んだり批判することは、障害者はヒエラルキーの底辺であるはずなのにという思い込みからのことで、その感情が浮き彫りになる程その思い込みが問題であると議論出来るようになるから面白い。障害者という社会からの勝手なイメージがなくなっていけば、マイノリティーを気にせず個性を出し力を発揮する人が増えるから面白い。

まぁ、他人のためにっぽいことを書いているけれど結局は自分のためで、端っこでひそひそと悲しみ泣きながら生きるより、ど真ん中で堂々と喜び高笑いして生きたいだけだ。だから、ぼくはこれからも、これまで以上に、挑戦し続けて豪快に生きることにする。

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