なぜ人を殺してはいけないの?人を殺したい先に。

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なぜ人を殺してはいけないの?

なぜ人を殺してはいけないのだろう。

生きていれば一度は考えたことがある人も多いかもしれないが、自分がされたくないことを人にしてはいけない、人を悲しませてはいけない、法律は犯さないべきだ、とかそんなところで多くの人の考えは落ち着いているかもしれない。

しかし、このブログを始めた直後に以下のコメントが来た。

「人は何故、人を殺してはいけないのか」というコトについて、ずっと考えています。何年も考えても、どんな立場や場面に居る人達全員に納得させられる答えが出ない。

君ならどう思う?

人生に飽きた。死にたいわけではない。へ、ベンジャミン。さんからのコメント

実は、しばらくブログを更新しにくかった理由の一つは、このコメントを無視して投稿をし続けていいかわからず、返事をするにも文の書き方を間違えると語弊が生まれるかもしれないから慎重にするべきだと保留にしてしまっていたからだった。

ぼくは、「どうして人を殺してはいけないか」ということを幼少期からよく考えていて、未だに考えていて、この文章を書きながらも考えている。どうして人を殺してはいけないの?考えれば考えるほどにわからなくなる。

なんでだろう?
考えれば考えるほど余計にどんどん呑み込まれて抜け出せなくなるようになって行く。

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そして思った。

この質問がそもそも愚問ではないだろうか。

どうして人を殺してはいけないのか。これは、人を殺してはいけない前提で、何故、人を殺してはいけないのか問うている。ぼくはそもそも人を殺してはいけないと思っていないのに、何故、人を殺してはいけないのかを考えているから答えが出ないのではないだろうか。

だって、現に人は人を殺している。「何故、人を殺すべきではないのか」なら説明出来るけれど、「殺してはいけない」と断定しきってしまうから答えを引き出せないのではないか。

死刑は人を殺すことだ。

殺したい人がいるという感情があり需要があるから暗殺者は存在するのではないか。

動物を食べるし、昆虫を退治して生きている人間だって生物の仲間なのに。何故、人間だけそこまで特別扱いをされるのか。同種同士で生きるために殺しあっている生物はたくさんいる。

もし、生きているだけで一年後に地球をぶっ飛ばす爆発を起こすかもしれない超生物と化した人間が現れても生かし続けるのか。(「暗殺教室」)

自分がされたくないことを人にしてはいけないと言うが、じゃあ、人はいつ何時も絶対的に殺されたくないのだろうか?もちろん、いきなり知らない人に意味もなく殺されるのは絶対に嫌だろう。もしくは、事故によって取り返しのつかないことをして人を殺してしまった時、例えば睡眠不足で車を運転していて小学生の命を奪ってしまい、その子の父親の感情がおさまらず、あなたを殺すと楽になり納得するのだとしたら、もしかしたら未来のある命を奪った罪悪感を背負い生きるよりはその父親に殺されることを受け入れるかもしれない。自殺したくて、生きるのが辛くて、自分で死ぬよりは殺されたいと思うかもしれない。

命を奪った罪悪感を背負い生きるよりはと表現したけれど、実は人を殺す側はもっと辛いだろう。殺される側の方が楽なんじゃないだろうか。だって死ぬのは一瞬だし、いつかは死ぬんだし。それよりも、人を殺す瞬間の五感で感じたことが残りながら、何度も思い出し考えながら何十年も生きる方が常人には耐えられないのではないか。仮に殺したい人がいて、他人に頼んだとしてもだ。「何故、人を殺してはいけないのか」は簡単に答えられないけれど、「何故、人を殺すべきではないのか」は「何故」と考えちゃう人が殺す側になってしまったら、そもそも耐えて生き続けられないだろう。

そう考えると仕事でなら、任務でならその壁は超えやすいかもしれない。暗殺者や死刑執行者、はたまた戦争なら。それでも、手も、目も、匂いも何もかもその瞬間を一生忘れられずに生きることになる。

いろいろな人と飲んでいると、人を殺したことのある人にも会うのだけれど、その人もやっぱり普通に人間なんだ。家族がいるし、良い笑顔もする。月曜日の朝の電車に乗る色々と力を抜き取られたような形相のサラリーマンよりも全然人間っぽい。

秋葉原通り魔無差別殺傷事件の加藤さんも、ただ不器用で寂しかっただけのようで、きっと会話する機会があれば救われたのだろうと思うし、とてつもなく悪いことをした人だけれど、やっぱりちゃんと人間なんだろうなと感じる。殺人犯となってしまった加藤さんの弟さんは、殺人犯の弟であるということに耐えられず自殺してしまった。人を殺すことが悪いという認識の社会に生きる人々の目が、結果として人を殺してしまった。

法律で人を殺すことはとても重く禁じられている。なぜその法律が出来たのかを考えると、それは殺されたくないからだろう。社会のルールは偉い人たちが作る。偉い人たちは命を狙われやすい。人生を謳歌したいがために必死に登りつめた先で、標的にされて殺されてしまうのでは元も子もない。それは人権として全ての人を対象にするべきだということで法律になったのだろう。しかし、そこで人をなぜ殺してはいけないかは綴られていない。過去に人は人をたくさん殺しているし、今も殺しているし、未来も殺してしまう現状に対し、上手く説明出来ない。殺されたくなくて、生きることは最大の人権であるとしか説明が難しい。

人を殺したい

ところでなぜ「人を殺したい」という感情が生まれるのだろう?

思うにそれは最後で最大の「逃げ」なのではないだろうか。

不満があって人を殺したいと思う。それが全人類が相手なのか、特定の個人に対してなのかは人それぞれかもしれないけれど、不満の先に、最後に生まれる感情が殺したいという気持ち。

不満を、他で満たしたり、話し合いやお金で解決したり、距離を取り触れないことで忘れたりすることで解決出来ればいい。しかし、どうしたらいいかわからなくて、どうしようもない状況に堕ちいった時に、他人、または、自分を殺したいと思う。その感情は、不満から生まれる最後で最大の逃げではないだろうか。

じゃあ、人を殺したら不満は解決するのか?

いや、人を殺したことを一生背負わなければならなくなる。

物理的に距離を置いて、一切の接点をなくせば時間とともに忘れるけれど、殺してしまい、物理的存在でなくした、精神的なものとの距離は、死ぬまで、否、死んでも、永遠に離せないだろう。

人を殺したいという感情までなるかならないかはともかく、不満というのは他で満たしたり、話し合いやお金、いかなる手段を使ってでも物理的な距離をおけば大概解決すると思っているが、唯一、それでも殺したい衝動を抑えられないのではないかという状況がある。大切な人を殺された時。それもで、天から見ている人がどう思っているかを考えれば、復讐を望んでいないのではないだろうかと考えると、やっぱり人を殺すことは解決ではなくて、さらなる悪化でしかない。

なぜ人を殺してはいけないのかは、断言できる正解がないから、考えるまでもなく、そもそも、人を殺してもいいことがないのだと気づけばいい。

ところでぼくは子どもの頃、もう死ぬだろうと思いながら生きていた。ものすごく悩み落ち込んだこともあるけれど、受け入れることが出来てしまうと案外どうってことなかった。だって、人はいつか自然と死ぬのだからタイミングの問題でしかない。すると、死んでもいいやと思うまでになると、他のことは何でも「まぁいっかぁ」と思うようになる。不満も悩みもまぁいっかぁで片付き、寝たり食べたりするだけで楽しくて忘れていく。

「人は何故、人を殺してはいけないのか」ということへのストレートな回答ではなくてベンジャミン。さん申し訳ないです。それに対する返答は、「してはいけない」と決めつけてしまっている時点で解がなかったというのがぼくの解でした。

大前提として、社会で生きて行く以上、人が嫌がることをしてはいけないから人の命を奪ってはならない。

その上でなぜ人を殺してはいけないのかを納得して人を殺さなくなるのではなく、人を殺してもその結果もっと悪化するのだから人を殺してもいいことがないと気づくべきだ。

さらにはその根源となる不満を「まぁいっかぁ」となぎ払って幸せを見つけて進めるようになるとなおいい。

そのための一歩は、勇気を出して色々な人と失敗しながらも会話をしてみることだと思う。

Photo by GemWebb – Change of venue

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4 件のコメント

  • 人を殺したことを背負ってという段階で
    人を殺すことをすでにいけないものとして扱ってるように思う
    証明すべきことをその理由に使ってませんか?

    • なるほど。
      ぼくの中では、人を殺すことが悪いと思うことと、人を殺してしまった時やその後に感じるであろう罪悪感を別のことと考えています。なので、証明すべきこととは違うものを使っています。
      しかし、多かれ少なかれ罪悪感は感じるであろうという前提にはなってしまっていますね。

  • 嘗て「何故人を殺してはいけないのか?」という単刀直入の問に対して、大江健三郎や吉本隆明等の所謂知識人は、理窟を捏ね回しているだけで、明確な答えを出すことが出来ませんでした。実際の倫理的判断には時間的猶予はありません、即座に判断し行動しなければなりません。答えは単純です。

    「人格に背くから悪である、人格は愛(慈愛)で成り立っている。」
    「善悪の判断に迷うことがあれば、愛があるかと自問すればよい。」

    これ以上の答えはないはずです。人は法律を犯したから罰を受けるのではありません、人格を犯したから罰を受けるのです。法律は最低限のルールに過ぎません。なぜ桝添元都知事が失脚したかを考えればわかることです。彼も所謂知識人で、法に触れるようなことはしていないと主張しましたが、世論は許しませんでした。都民としては、悪いことはしない普通のことを期待したのではなく、善いことをする「人格者」を期待したのです。

    三島由紀夫は所謂知識人(リベラル)のことを「主体なき理性」と言って揶揄しました。知識人には情・意が欠落した人間失格者が多いのです。

    真に理性的な人は理性の限界を知り、その使い方を心得ている人です。

  • 絶対的な善悪は存在しない。故に、殺しも殺さないことと同様に一つの選択肢である。
    本当は、殺したって構わないのである。
    ただ多くの人が殺しを選ばないのは、社会的制裁の可能性など、期待値の問題で殺しよりも殺さないことの方がプラスに思われるケースが多いからではなかろうか。
    殺人者の精神面の負荷も想定されるマイナスの一つではあるが、サイコパスのようにそれを感じない人もいることは留意したい。

    ちなみに、1人を殺して5人を助けるか何もせずに5人を死なせるかという倫理的問題があるが、多数派の判断は細かい設定の違いで簡単にどちらにも転ぶ。
    構造的に同じ問題で判断が変わることも、善悪に絶対性がないことの良き証拠ではなかろうか。

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