将来の夢は何?「死ぬこと」にすると人生が楽しくなる

天国画像 人生と生と死

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将来の夢は「死ぬこと」

生まれてきたら、必ず平等に授かるものがある。それは「死ぬこと」。

だったら「人生を楽しみたいなら、将来の夢を「死ぬこと」にしちゃえば必ず夢が叶うから幸せ者になる!」なんて言ったら表面的に捉えたら頭の可笑しい奴だと思われるかもしれない、否、将来の夢を「死ぬこと」にしたら人生が楽しくなった。

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身長109cm、体重19kg、26歳。横紋筋肉腫(小児がん)、ムコ多糖症モルキオ病(ライソゾーム病)。高卒でフリーで仕事をしようとするがなかなか上手く行かず、後に上場するIT企業の株式会社セラクに21歳で入社。しかし、22歳3月に同級生は新卒になるから逆のことがしたいとニートに。そして、スマホアプリ開発、クラブダンサー、ライター、YouTuber、ホストなどを経て23歳でSOD専属の監督兼男優になる。現在は、ドラマや映画で俳優、テレビや雑誌などでタレントとして活動。また、IT企業の株式会社フリューゲルで執行役員、部長をしつつ現役のプログラマー。弊社では、未経験者へのプログラミング教育もしていて積極的に採用中。詳細、質問などはSNSでお気軽にどうぞ。

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夢を「死ぬこと」にすると人生楽しい

「将来の夢は何?」

って子供の頃よく聞かれるし、

「今後の目標は?」

って大人になってもよく聞かれる。

しかしそれってすごく愚問だと思っている。だって、絵空事掲げたってどうしようもなく成し遂げられないことはこの世にいっぱいあって、逆に棚から牡丹餅的に訪れる幸運もある。1日後を、3日後を、現在と過去の経験やスキルを使ってどう成長させようか考えて未来構築した方が間違いなく人生は進展するはずなのに、道筋の思い浮かばないゴールを設定するのは如何なものか。

ところが、絶対的にたどり着いてしまうゴールがある。どんな人間だって、どんな生物だって、生まれたら必ずたどり着くゴールがある。「死」だ。だからそれを夢にしてしまえば夢が必ず叶う。「死ぬこと」を夢にしたら良いなんて言ったら、死を軽視しているとか死を推奨しているとか言われそうだけれど全く違う。むしろ真逆だ。死のうと思えば勇気さえあればいつでも人は死ねるけれど、死ぬのが夢なら死ねば良いという訳ではない。一言で「死ぬこと」を夢にしても、そこにはいつ、どこで、誰がいて、なぜ、どのように死ぬか、どんな人間になっていて、何を思い出し、何を考えながら、他者にどう思われながら死ぬのかがある。死は必ず体験出来る。しかし人生で1回しか出来ない。そして本当に人生の終わりのことだから、死ぬ瞬間のことを真剣に考えてデザインしたいし、死に方を構築しなきゃ勿体無い。そして、生きるとは死ぬ準備をすることなんじゃないかとさえ思う。将来の夢を「死ぬこと」にするとは、死ぬ瞬間にどんな人間になっていて、何を得ていて、何を大事にしていて、何を思い出し、何を考え、どんな人といて、、、ということを考えた上で最高の死ぬ瞬間を夢描きながら生きるということだ。

ぼくは物心ついた頃からいつも死ぬことについて考えていた。寝ると1日3回は死ぬ夢に魘されて起きる。首を絞められたり、毒の刀に切られたり、巨大化したバケモノに潰されたり(戦隊ヒーローの見過ぎ)。電車に乗る時は轢かれて死ぬのを妄想し、一人で留守番している時は包丁を持った強盗が入って来て殺される妄想をした。病気で死ぬことを考えるのはもちろん当たり前な日常だった。今思えば怖い子供だったけれどガンになり国立がんセンターの小児病棟で育ち後に難病も見つかるとはそういうことだった。しかし、死ぬことを考えるというのは、ただ暗いことではない。事実としてあり得ることの1つの考察だ。そして、ただ毎日無意味に死ぬことを考えている訳ではなくて、だんだんと死ぬまでに何をしておきたいか、死ぬならどう死にたいかを考えるようになった。すると「理想の死に方」と「理想の生前」が出来上がっていく。生きている人間が生きているうちに己の生前を考えるというのはとても滑稽だけれど、死に視点を置いて考えるようになるから生前と死後が気になって行くのだ。そしたら、生きているうちの小さな出来事はどうでもよくなるし、どうでも良いこだわりを捨てるようになって、死に際に本当に求めているものを生きながら追うようになった。

死ぬことが夢。最初で最後で確実に訪れる死を「理想の死」にすることが夢。そう考えると、今、お金がないとか、恋人がいないとか、頭が悪いとか、顔が悪いとか、失業したとか、離婚したとか、病気になったとか、親が死んだとか、世の中がどうだとか、自分の先行きが不安だとか、どうでも良いとまでは言わないけれど実にちっぽけなことにはなる。これを読んでる人の多くは少なくとも10年以上は生きているだろうけれど10年の内の1秒にも満たない今の感情なんてどうでも良くて状況なんて受け入れるか変えるかすれば良いだけだ。80年生きたとしたら今のことなんてどうでも良い。それよりも、「もっとやりたいことをやれば良かった」「己を捨てて仕事をし過ぎた」「愛してると沢山伝えるべきだった」とか、「仕事は理不尽なこともあったけどお客さん笑ってくれたのは嬉しくてやり甲斐だったな」「ハワイ旅行楽しかったし、クリスマスディナー美味しかったな」「家族に手紙を残そう」と死に際には思うんじゃないだろうか。歌手になりたいや俳優になりたいというこだわりよりも大勢の人に必要とされ愛されたことを実感しながら死にたいとか、お金が欲しい権力が欲しいよりも死に際に余計な心配をしたくないし出来るなら生きた痕跡を感じたいという深層心理があるんじゃないだろうか。小さく近いゴールよりも、大きく遠いゴール設定の方が辿り着きやすいし、数年、数十年生きたくらいで決めた小さく近いゴールが当たりだとは限らない。大きく遠いゴール設定は生きているうちにやりたいことが増えることにもなる。むしろ小さなゴールに拘りながらも上手くいかず彷徨うと、最後どこにたどり着くことやら。

死ぬ瞬間状況を夢として実現するのはかなり無理がある。ガンで死ぬか、脳梗塞で死ぬか、事故で死ぬか、事件で死ぬか選べない。第三次世界大戦や宇宙戦争もあり得る。しかし、死ぬ瞬間はどんな形であれ訪れる。今日かもしれないし、3年後かもしれないし、30年後かもしれないし、100年後もあり得るかもしれない。とにかくいつか死ぬかわからない緊迫感を持ちながら、今を最大限に活用し楽しむようにしつつ、死のデザイン、死ぬ準備、死後の構想をして生きると結果として生前、人生が充実していく。

だから、将来の夢を「死ぬこと」にすると楽しい。

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