人生に飽きた。死にたいわけではない。

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死を感じた

死にたいわけではない

人生に飽きた。前もって理っておくと、死にたいわけではない。もし、死にたくて、例えば仕事が辛かったり、恋人にふられたり、人間関係に疲れたり、そんな気持ちでこのブログを開いてしまったのなら申し訳ないがちょっと違う。低く暗い心情でありながら、前向きでポジティブな延長線上で、生きること、人生に飽きてしまった。

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死ぬと思っていた

正月が終わり普通の生活が始まった。年をまたぐ6日間、ずっと引きこもっていた。誰とも会わなかった。というのも、気が落ちていた。落ち込んでいたのではなく、ただただ冷静、冷たい感情で、過去一年を振り返り、翌一年を考えていた。毎年、年をまたぐ時、なぜ自分が生きているのかわからなくなる。そして、年をまたぐ直前に、そろそろ死ぬんじゃないかと思ってしまう。

寿命のようなものは特にない。が、しかし、過去にはあった。複数回あった。今でこそ、一つの病は後遺症があるものの完治し、もう一つの病もひとまず進行停止しているが、どちらも奇跡だと言われて、治療が驚くほど上手くいった原因が明確にはわかっていない。奇跡で二度も生き延びてしまったことがなぜ生き続けているのかと考え、逆に生きるプレッシャーだったりする。そして、寿命はなくても爆弾は持っている。誰だって、交通事故に巻き込まれたり、自然災害に遭遇したり、実はガンがひっそりと進行していたり、一年後や明日にでも死ぬ可能性は十分にある。そしてその、死因となるものごとの数、確率がぼくは普通よりはるかに多く高くあることは間違いない。

だから、年が終わる前に、今年を迎える前に死ぬんじゃないかと思ってしまう。19歳最後の日も、大人にならずに生きなり死ぬんじゃないかと思い、高校入学直前も、中学入学直前も、同様にしてそろそろ死ぬんじゃないかと直前まで不安だった。

もし生きていても

子どもの頃、未来の自分を想像して、仮にもし生きていたとしても、ぼくの身体は思うように動かず目と口を動かすことで精一杯で呼吸すらも苦しい状況で生きることになるだろうと覚悟していた。幼少期からそんな人をたくさん見てきたし、自分の病気を調べてもやはりそのような症状になることが自然で、実際に車椅子乗って管を首につけて思い通りに身体を動かせないでいる同じ病気の先輩も見た。

そんなぼくの夢は物理学賞だった。脳さえ動けば良い。脳さえ動けば、現実がどんな不自由でも、理論物理学で数字によって幻想的世界を頭の中に創造して生きることが出来るから。

生きていても身体は使い物にならない。そうだとしても、頭だけを最大限に活かして、それにより人生を楽しめれば良い。そう思っていた。しかし、少しの欲が出てしまった。そして、15歳の頃に夜遊びを知り、20歳の頃、思い切った行動に出た。家を出た。自ら辛うじて動く身体を破壊してでも、今出来る最大限の生きる楽しみを知ろうとして。酒を飲みすぎて死んでも、最高の思いをした状態で死ねるのならば構わないのだとそう思った。

また奇跡が起きた

そしたらなんとしたことか。身体はなぜか回復していった。医者と両親には、なるべく身体には負担をかけないように、ダメージが蓄積しないように生きるべきだと諭されていた。だから、歩けなくなる覚悟で、歩けるうちに歩こうと思ってホームレスをして自由になってみたら、むしろ歩ける距離が5倍に延びた。生き続けただけで奇跡なのに、また奇跡が起きた。

普通の楽しみを味わって死にたい。みんなでお酒を飲んで楽しんだり、セックスして気持ちいい思いしたり、普通の喜びを得たいと思ったら、アブノーマルな酒の楽しさを知り、セックスどころかエロいことしてお金を貰えるようになった。正直、中学時代のぼくが今の自分の姿を知ったら驚いて気絶すると思う。

人生に飽きた

焼き肉に飽きるように

ところで、もし、一週間毎日焼き肉を食べたらこう言うかもしれない。「焼き肉に飽きた」と。焼き肉なら一生飽きない!というのなら、ケーキでもなんでもいいから同じものを食べすぎたら飽きると思う。この焼き肉に飽きたというのは、一生焼き肉を食いたくなくなるわけではない。「もう焼き肉を食いたくない!」というくらいの満足感に満たされ、焼き肉を食うことで得るはずの一回あたりの幸せがどんどん減少し、蓄積された一週間のトータルの焼き肉満足感がハイレベルに達して、しばらく食べる気がなくなる状態を飽きたというのだと思う。

それが今まさに人生に対して起こっている。死ぬだろう。仮に生きていたとしても不自由だろう。そう人生に大きな期待をしていなかったぼくが、想像をはるかに超えた人生の満足感を連続して味わいつくし、満腹になり、生きることに飽きてしまった。

焼き肉を飽きるほど食って満足したら、次は寿司?ピザ?とどんどん続く。人生に飽きてしまったら、同じ毎日を普通に生きることが退屈になる。

飽きたから行動する

なぜにしくんはそんなに行動的なのか。そう聞かれることが多い。最初のキッカケは、ありきたりな欲を手に入れるためであっても、普通より数倍数十倍の勇気を出して行動する必要があったからだった。そしたら、一度勇気を出して大きな壁を克服すると、それより小さな壁はへっちゃらになる。そしたらどんどんいろんな挑戦をこなして、数多のリターンが連続して返ってきた。すると、満足度が想像外に満たされた。焼き肉を毎日食すように、人生に毎日満たされすぎた。そして、ただただ生きることには飽きてしまった。

もともと人生への期待値が低かったから満足度の沸点が低かったのもあるかもしれない。人生が毎日楽しくて楽しくて仕方がなくなっていった。そして、人生に飽きるようになると想像出来る平凡な毎日はつまらなくなる。新しいぶっ飛んだことをしたくてしょうがなくなる。

死に対する意識で止まれない

前述した通り、死への恐怖心と死すらも受け入れてしまう覚悟の心が混在して交互に現れる。死への恐怖心があるから有限な時間に対する危機感もあり加速度がどんどん増す。それと同時に、死すらも覚悟しているから恐ろしい程に万物に対する恐怖心がなくてブレーキが効かない。ぶっ飛んだ面白いことをしたいという欲求が出ても、大半の人はブレーキをかけるかもしれないが、生きていればいいや、最悪死んでもいいやと開き直るとブレーキなんて要らなくなる。

普通の毎日、ありきたりな人生がつまらなくて飽きて、新しい刺激を求め、死への距離を意識して加速し、死すらも受け入れて止まらない。それが今の行動エネルギーだと思う。

人生において何が正解で何が不正解かなんてわかない。しかし、せっかく生きているならとことん満足して生きたい。いつか必ず人は死に、そして死ぬ時は死を受け入れなくてはいけない。だから、人生に飽きるほど全力で生きるのも良いかもしれない。どうせ死ぬんだと思えば何も怖くない。

ぼくは、人生に飽きた。ぶっ飛んだことをしたい。どうせ死ぬんだから、生きているうちは挑戦して、失敗して、立ち上がって、そして人生を味わい尽くしたい。

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3 件のコメント

  • 「人は何故、人を殺してはいけないのか」というコトについて、ずっと考えています。
    何年も考えても、どんな立場や場面に居る人達全員に納得させられる答えが出ない。
    君ならどう思う?

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